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| カラーン・モスクの中庭より |
朝食後荷造りをすませ、部屋に置いたまま昨日入れなかったカラーン・モスクへ向かいました。
途中で見かけたザクロのモニュメント?
これは「セーブル」で、数字の7の事。ウズベキスタンを代表するスポーツウェアメーカーのセーブルのロゴです。
恐らくこのバギーが7号車と言う事かな。
ここを左折してカラーン・モスクへ。
このツアーの前に何とか入場できました。
日本語版です。新版ですが少し古いかな?
120,000スム、約1,700円位だったように記憶しています。
大聖堂としてはチムール時代のサマルカンドの大聖堂と同規模です。内部の建物の数や規模においてはサマルカンドのビビハニム・モスクにはかないませんが、広さはこちらの方が130m×80mとかなり広い。
伝統的な長方形のレイアウトで4辺にそれぞれアイヴァンが有ります。
中庭を囲むように288のドームが有り、それを208の柱が支えています。
左の写真の八面体のスタンドは書見台です。
途中ミル・アラブ・メドレセの南にあるアミール・アリムハン・メドレセの横の路地を通ったら、門が開いていました。
ラッキーと思って中に入ろうとしたら、マイクで怒られてしまいました。監視カメラが付いているのですね。
現役の神学校ですから当たり前です。
良く見たら扉に許可された者以外の立ち入り禁止と書かれていました。
タキ・テルパクフルシャンを通ったら、前夜Tシャツを買った店が開いていました。ホテルに戻ったのが9時45分。急いで染みの付いたTシャツを取り出し店まで戻りました。快く交換してくれました。ホテルに9時55分着。何とか出発に間に合いました。
この日のツアーはブハラの北の郊外のスィトライモヒホサ宮殿とギジュドゥヴァンの陶器工房の見学です。
ドライバー・ガイドはジョニさん?ホテルから5分程の所に停めた車までスーツケースを運んでくれました。
前夜夕食を食べたThe Plovの前を通過し、その先を北上。ホテルから20分足らずで宮殿に到着です。
地下道を抜けると右手に広場が有りその広場の3辺を囲むように宮殿が有りました。
正面がメインビルです。下の写真のように右側は美しく装飾された壁だけのようでした。
ロシアの建築家とロシアで建築学を学んできた建築家の共同で建てられたため、外部はロシア風、内部はロシア風とアジア風のミックスとなっています。
見事なシャンデリアですが、左側の建物を含め幾つかのシャンデリアが使われています。
この照明の為に中央アジアで初めての発電機が設置されたそうです。
ガラスで装飾された暖炉?
ヒヴァで見て来た19世紀前半の宮殿とはかなり異なります。
これはほんの一部です。
ブドウがたくさん実をつけていました。手を伸ばせば実を採れそうでした。太陽光が遮られ快適な通路です。
こちらがハーレムだった建物です。
この池で娘たちを泳がせて、気に入った娘をお召しになったそうです。
それにしても驚いたのがこの池の大きさと深さです。
出入りできるくらいの高さまで水が有ったとすると相当な深さになります。
とても長時間戯れていることはできそうにありません。
体の丈夫さのテスト?
家族のお手伝いかな?
こたつとカーペット。いかにも中央アジア風です。
この広場を挟んでメインビルを望むように建てられているのが、ここの建築を指導したシリン・ムラドフの銅像です。
こちらが手前の建物越しにナクシュバンディーのお墓を見た写真です。
ブハラの町から走って来たM37(北に向かう主要道路)に戻り北に向かいました。
約50㎞、40分ほどでキジュドヴァンの町に到着。
工房は東に向かう道路の北側にあるので途中でUターンして建物に向かいます。
この工房はGoogle Mapで"Museum Gijduvan ceramics"で場所を確認できます。
写真も一杯掲載されているのでそちらも参考にしてみてください。
出迎えてくれたのはこの工房の主の娘さん。堪能な英語で工房内を案内してくれました。もっと観光客が来てると思っていましたが、この時間は私達だけでした。
ウズベキスタン内の各都市の特徴が分かる陶磁器が展示されていました。例えばブハラ風とかサマルカンド風の物が比較できます。
ヒラリー・クリントンの写真と、署名入りの感謝状も飾られていました。
これは前日ブハラの工房で見ていたので新しい知識にはなりませんでしたが。
何とハンドライティングでデザイン画を描いているとのことでした。
彼女の父親と2人のお弟子さんたちが、絵付けや成形などそれぞれ異なる作業をしていました。
ガイドブックによるとこれを回すのはロバなのですが、この日はお休み?
上の棒にロバをつないで、この石臼の周りを歩かせるそうです。
2人の女性が織っていました。
奥が絨毯の展示即売室。
中央アジアっぽい陶器の小物入れをナッツ用に購入しました。写真の下の方に写っている中から選びました。
ガイドしてくれた娘さんと記念写真。
テーブルが8卓程並んでいました。団体が来ても大丈夫そうでした。
事前予約で1人US$10 のランチ。
場所が場所だけに期待していなかったのですが、意外とおいしかった。
写真のナッツなどのスナック、スープ、トマトと茄子の煮物、コーンライス。このコーンライスが美味しかった。
食後トイレを済ませ出発。列車の時間までまだたっぷりあります。食事中ドライバーがもう1~2か所回りましょうと提案してくれたのでその案に乗っかりました。
外に出ると道路の反対側に実を付けた樹が。
良く見ると少し丸っぽいですが日本の花梨にそっくり。
ドライバーに尋ねたら、どうも同じ種類らしい。
やはり食用ではなく時々喉薬にしたりするとのこと。
写真は公園の入口です。
その他はモスクです。
彼の名前がこの町の名前になりました。
記念館の前にアーチの門を持った建物がウルグベクが建てさせた3つ目のメドレセと思われますが定かではありません。
この町に有るはずですが、これ以外それらしいメドレセは見つかりませんでした。
このミナレットもブハラのカラーン・ミナレットと同様に青の帯がアクセントになっています。
この時間、右の建物で礼拝が行われていました。
このモスクから始まり計7つのモスクを巡ると言うのがスーフィズム教徒の巡礼のようになっているそうです。
この巡礼を一度行うとメッカに一度行ったと同じ事になるそうです。ドライバーのジョニさんも完了したそうです。
途中、Rabatakと言う町で東に向かいました。
まもなく右側に幾つかのホテルが建つ所に車を停め、道路の反対側に渡った所にあるのが世界遺産歴史的建造物のひとつ、サヒ・ナクシュバンド・バハディン・ブハリです。
ナクシュバンディーはスーフィーズムの歴史に大きな影響を与えた人ですが、スーフィーに関して少し説明しておきます。
スーフィーはイスラム教のひとつの思想で、神秘主義思想家達が虚飾を排した印として羊毛(スーフ)を着用したのでスーフィーと呼ばれるようになりました。
彼はそのスーフィーに大きな影響を与え13世紀にブハラ・ナクシュバンディー教団を設立しました。
この教団は17世紀に中国の新疆の回族に影響を与え、回民蜂起を起こすなどして清朝末期の歴史に大きな影響を与えたそうです。
写真はお墓のある中庭。
ミナレットが意外と低い。
BUXOROはブハラの事です。
駅に向かう途中で巡礼図6番のxoja Sayyid Amir Kulaiの前を通過しました。青いドームが印象的でした。
ブハラの旧市街からは東南東に10km位のところにあります。空港の方が町に近い。
中央のVOKZALと書かれているのはウズベキ語で「駅」の事。BUXOROは「ブハラ」です。
この続きはサマルカンド編でお伝えします。



























































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