| アブドゥルアジス・ハン・メドレセの美しいモスク |
ここからはガイド付き半日ツアーです。
予定通り9時にガイドが迎えに来てくれました。この日の観光は歩いて行ける所なので車は不要です。
ガイドさんは日本語の堪能なウズベクの美女のニソさんでした。
同じような絵が描かれたメドレセが、後で訪れるサマルカンドのレギスタン広場にも有ります。
メドレセの中に入りました。元々は寄宿用の部屋でしたが、今はお土産ショップになっていました。この様な寄宿の為の部屋をフジュラとよびます。
中庭にはテーブルが置かれ飲食ができるようになっていました。夜はコンサートなどが催されることが多いそうです。
私達の部屋からも見ることが出来た像ですが、これはフィッジャ・ナスレディンと言う神学者の像です。ユーモアに富んだ講義を行ったとかで多くの人に愛された方だそうです。
旧市街の中心にあるのが約40m四方のこの小さな池です。
池の畔はオープンのカフェ・テラスになっていて市民や観光客の憩いの場となっています。
まだ少し寒いので暖を取るためニソさんはスタンドでコーヒーを買い、ガイドを続けました。
この池と私たちの宿泊しているホテルの間の通りを西へ少し歩くと門が有り、その先の右(北)にタキ・サラフォンがあります。
タキとは市場(バザール)の事で、ブハラには現在3つのタキが残っていてその一番南にあるのがこのタキ・サラフォンです。両替市場だったそうです。ブハラを訪れたキャラバンが最初にここで両替をしたとか。
写真はナンに模様を入れる道具です。
ウズベキスタンのナンは日本でもインド・カレーと共に食べられているような形ではなく、どちらかと言うと巨大な丸いパンです。
都市や家庭によって異なる形や模様で、少し硬めですがその分日持ちもします。
このタキ・サラフォンに南から入り北に抜け少し歩いた左側にこじんまりとしたモスクが有ります。これはアゴキ・マッタリ・モスクです。ブハラでは最も古いモスクで、アラブ人がブハラを占領した時に建てたそうです。
チンギスハンの攻撃で廃墟となってから、1930年までは土に埋もれていたそうです。
最初に発掘されたのは南の入口で、ユニークな装飾用レンガ積みと古風なマジョリカが発見されました。この様に今も発掘されていない史跡が数多くあるんでしょうね。
最初のタキもそうですが、今は名前とここで扱われている商品とは関係ありません。
但し確かにヒヴァで私たちが試着して写真を撮った帽子が売られてはいました。
このタキを北に抜けると両側にお店が並んでいます。先ずガイドのニソさんが懇意なお店でウズベキスタンの地図の入ったTシャツを購入。(後ほどご紹介しますが問題がありました。)
その先の左側にミニチュア工房(Miniatures Painting Workshop)が。ミニチュア絵のギャラリー兼アトリエでした。
小さな絵ですが、一枚一枚にストーリーが有るそうでスタッフが1枚の絵の壮大のストーリーを聞かせてくれました。う~ん!言われなければその話を想像することは難しい。
欲しい絵も有ったのですが、かなり高額で妻の許可は降りませんでした。この工房の向かいに古いお風呂屋さんが有りました。お金を出せば今でも入れるそうです。
丁度お客がいなかったので見るだけで入れてもらえました。
低い入り口を入ると中は幾つかの部屋の分かれていて、各部屋は大理石の座席が八角形の部屋に壁に沿っておかれ7~8人位が一部屋をシェアできそうでした。
因みに各部屋はそれぞれ温度が違うそうです。汗をかき始めたので急いで退去。
この賑やかな通りはハキカット通りと呼ばれブハラ旧市街のメイン通りとなっていて、いつも観光客で溢れています。ブハラ銀座?両側にはレストランやホテル、ショップが並んでいます。
結構混んでて、13時半に入り口を入って直ぐ左手の席が取れました。
これで安心してランチが取れることになったので先に進みました。
ハキカット通りを進むと右側にクラフト・オブ・ブハラと言う刃物を作っている工房が有ります。(左の写真は夜この前を通った時に写したものです。)
シルバー(ステンレス)、ゴールド(黄銅?)、ブラック(チタン)の3色が有り、それぞれオスとメスのデザインが有りました。値段は各US$ 20/30/40でした。私はやはり一番切れが良さそうで長持ちしそうなチタンにしました。
名前も入れてくれます。
ご主人とその息子さん?それともお弟子さん?と記念写真を撮らせて頂きました。宝石商の市場の事です。
3つのタキの中で最も大きい。
すぐに両側に大きな建物が見えます。
振り返るとタキ・ザルガロンの向こうの方に青いドームと高いミナレットが見えました。これは後ほど紹介します。
ブハラ、サマルカンド、ブハラ郊外のキジュドヴァンに3つのメドレセを立てました。
また彼は天文学者としても有名でサマルカンドに天文台を立てました。この天文台に関してはサマルカンド編で紹介します。
このメドレセは1420年に建てられました。因みにウルグベクは1396年生まれで1449年に亡くなっています。典型的なメドレセで2階建ての部屋が2層になったフジュラが中庭を囲み、講義室、そしてモスクが有ります。
もともとは4隅に4つのドームと4つのミナレットがあったそうですが、現在の四隅は円柱だけになっています。アーチの両脇が綱をよじったような模様だったのがユニークでした。
1585年に改装された際、正面はマジョルカで装飾されました。
入口のドアの上に「知識の切望はそれぞれのイスラム教徒の男女の義務である」とアラビア語で書かれた碑文が有るのですが見落としてしまいました。
フジュラは2階建てのように見えますが、各階の部屋はそれぞれが2層になっています。写真のように入り口はとても狭く、中に入ると奥に石の階段が有ります。
入り口の上の格子窓は2層目の明り取り用です。
ヒヴァでもそうでしたが、彼女も一人旅だそうです。ウズベキスタンは女性の一人旅も安全だそうです。各観光地では多くのツアーリスト・ポリスを見かけました。彼らがにらみを利かせているのかな?
次に向かい側にあるアブドゥルアジス・ハン・メドレセです。こちらのメドレセは規模においても優美さに置いても、向かいのウルグベク・メドレセより優れていました。建てられたのは2世紀程後になります。
正面のアーチの左側の壁面は修復が途中で中断されレンガがむき出しの状態でした。
上の写真を少しトリミングして拡大して見ました。アーチ上部の凹凸の凹の部分の絵が各段ごとに異なっています。又門の両サイドの上から3段目の絵は、幾何学模様ですが空想上の鳥が太陽に向かって飛んでいる姿を現しているそうです。
左手のミナレットの頂上部にコウノトリの巣があります。こちらの巣は本物ですが、今はコウノトリは来ないそうです。
内部は2階建てのフジュラと夏用、冬用の2つのモスクが有ります。入口を入るとお土産屋さんが並んでいます。
ここで入場券を買って左側から奥に入ると中庭になっていて、一番奥に夏用のモスクが有ります。(こちらが冬用だったかも。)
こちらが前室です。
左の写真はその奥のドームの天井をズームして撮ったものです。
入口のアーチの天井同様細工が細かい。
グルっと回ってメドレセの外に出たのですが、メドレセの門の右側にある冬用(夏用)のモスクが気になり、わたしだけ中に入りました。
こちらは一見の価値ありでした。奥のモスクより装飾が格段に美しい。
全体的に赤っぽく温かい感じがします。
巻頭の写真はもう少しズームして写したものです。
写真を撮ていたら入場券を見せろと係員に詰め寄られました。券はガイドさんが持っているので残念ながら外から見ただけに終わりました。ひょっとしたらこちらはまた別の入場券が必要だったのかも。
なので残念ながら奥のモスクの写真は撮れませんでした。
と言う事で、前室からの写真をトリミングして拡大したのがこちらです。これでも十分美しさがうかがえます。
帽子を借りて写真を打つ場合は5,000スム、約70円必要でした。
ヒヴァではガイドさんのおかげで無料で撮りましたが。
彼女はかぎ針を使い布の上と下から作業しています。この位の大きさで1ヶ月くらいかかるそうです。
染料は全て自然の物で、化学品による着色ではないそうです。因みに左手前がヒヴァで買った書見台。4通りに組み替えられ、わたしはもっぱらスマホ立てとして利用しています。
余談ですが右上はネパールのカトマンズで買ったシンギング・ボールです。
ここからカラーン・モスク方向に向かいました。途中のイカットとカーペットの工房へ。イカットはスザニと同様のウズベキスタンを代表する織物です。イカットは絣染めでスザニは刺繍で模様を付けます。
写真は妻がヒヴァで買ったバッグです。イカット地で真ん中の模様はこちらの女性の被る帽子のデザインです。
奥にカーペットを織っている工房が有りました。結構ラフでYou-tubeを見ながら鼻歌マジリ(?)で織っていました。
暫くガイドの説明を聞いていると、その内容より カシャッ カシャッ カッシャンと言う音の方が耳に残りました。
全ての商品の価格を合わせると数億それとも数十億円位になりそうでした。
現在借家住まいの私達には必要ない?ので参考程度に見るだけにしてカラーン・モスクのある広場の方に向かいました。
カラーンとは「大きいとか偉大な」と言う意味があります。確かに大きいけどマレーシアでブルーモスクや国立モスクのように大きなモスクを見慣れているとそれほどの威圧感は有りませんでした。12世紀にモスクとミナレットが建てられたのですが、モスクは16世紀に建て直されたものです。
カラーン・ミナレット(偉大な塔)は高さ46m、下部の直径9m、上部でも6mも有ります。通常のように礼拝への呼び出しの為だけに造られたのではなく、精神的指導者の権力とパワーを象徴していたらしい。
レンガの異なる積み方で14層の縞模様にしています。
地球の歩き方によれば、ブハラの町を破壊しつくしたチンギス・ハンがこの塔の前で帽子を落とし、それを拾い上げる時に「この塔は私に頭を下げさせた立派な塔だ。」と言い、破壊を免れたという言い伝えがあるそうです。
モスクの入口の前は多くの観光客がいました。
先に入口へ向かったガイドのニソさんが戻ってきました。今日はもう入れないとのこと。
そうです。この日は金曜日。金曜礼拝ジュマの日です。12時以降は信者しか入れません。諦めて明日朝2人だけで来る事にしました。
こちらは広場の反対側にあるミリ・アラブ・メドレセです。このメドレセは16世紀に建てられたのですが、現在も使用されているため観光客は入れません。四隅の内三つは教室で一つは墓地として使われているそうです。
ミリ・アラブ(アラブ人の王子)は16世紀のブハラのイスラム教徒のリーダーで、このモスクを立てたハンの先生だったらしい。
この日のガイド付きツアーの最終目的地アルク城へ向かいました。右手に発掘中のエリアが。
ここにも世界遺産のマークが有りました。
すだれを使った休憩所?
中は日差しが避けれれて気持ち良かった。
すだれ越しに見るカラーン・モスクのドームも乙な物でした。
ブハラやタシケントではこのように気軽に、ちゃんとしたコーヒーが飲めるスタンドや屋台をいくつか見ました。値段も20,000スムくらいでした。でもホテルはインスタント。Why?ですね。
我々には300円弱で高くはないけど現地の方には結構な値段でしょうね。
ここから更に西に歩くとアルク城です。(語呂合わせみたいですね。)
最初にアルク城が建てられたのは2,500年も前の事。古代ブハラの発祥の地に建てられたそうです。
他の建物と同様にチンギス・ハンによって13世紀に完全に破壊されました。
今のアルク城は17世紀に建てられました。
但し1920年に赤軍によってほぼ崩壊しました。かなりの部分は修復されましたが、多くの部分は崩壊されたまま残っています。こちらは西門です。上の写真にラクダが写っています。
勿論観光客の為の写真撮影用です。
左の写真で分かりますが門までは上り坂になっています。
この城は丘の上に建てられているので、城壁内に見える建物が外の地面と同じ高さから立っているのではありません。
反対側に新しくできたブハラ・タワーが有ります。ここに上れば城内や旧市街が見えるそうですが、わたし達は時間が足りず行きませんでした。
ジャミーモスクです。
ここは北斗七星の形をした丘の上に建てられたとのことでしたが、どのように見れば北斗七星なのか分かりませんでした。
上から見るとかなりの高さが有ります。
王座に座って写真を撮ることもできます。
これより奥は博物館になっています。この城で使われた品々やハンの像も展示されていました。モスクの方に向かい右の路地を抜けると、1920年に崩壊したままの場所になります。
パノラマで撮ってみました。旧市街やブハラの東半分がほとんど見えます。
カラーン・ミナレットにズームしてみました。いささか歩き疲れたので、ニソさんがバギー(トゥクトゥク?)を捕まえてくれました。
バギーの後ろ向き座席から撮ったアルク城の東側を撮った写真です。
タキ・ザルガロンの裏口迄20,000スムでした。
タキの表でニソさんとお別れ。その前に今夜の食事でプロフを食べたいので、「The Plov」と言うレストランを予約してもらいました。半日ありがとうございました。
この続きは後編で。































































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