2025年11月5日水曜日

ウズベキスタンの旅 その2 ヒヴァのイチャンカラ

朝日を浴びるクフナ・アルク宮殿の門とカルタ・ミノル

 

ヒヴァにあるイチャンカラは、屋外博物館都市として1990年にウズベキスタン最初の世界遺産に登録されました。イチャンは内側、カラは城を意味しています。

高くて厚い2kmの長さの内壁に囲まれた砂漠の中のオアシス都市で、宮殿2つを中心に20のモスク、6本のミナレット、そして20の寄宿舎付き神学校メドレセが中心から東西に点在し、南北には住宅街が広がっています。因みに外壁は6㎞もあります。

左はイチャンカラの概念図で、わたし達が訪れた場所を順に番号で示しました。他にも名跡はまだありますが。漢字の母を思い浮かべて囲いの中の横線と点々の辺りに重要な建物が集まっています。

①のホテルを出発して先ず③の西門に向かいました。

最初に見えてくるのが②のカルタ・ミノルの塔です。

写真の正面は旧ムハマンド・アミン・ハン・メドレセ、今はオリエントスター・ホテルです。


カルタは短い、ミノルはミナレットの事です。

現在の高さは26mですが、建設当初は中央アジアで最大で最も高い109mを予定していたのですが、命令した王がなくなった為途中で中止されてこの高さになったらしい。それでも大きい!

一説ではブハラのハンが引き継ごうと建築家を送ったのですが、ここヒヴァのハンが腹を立ててこの建築家をこのミナレットの上から投げ殺したという説も有ります。

青いガラス張りタイルを使ったミナレットは中央アジアではここだけとのことです。

ここから③の西門に向かうと両側にお土産屋さんの屋台が並んでいます。

これはウズベキおじさんだそうです。ウズベキスタン全土で種々のウズベキおじさんが売られていました。



こんなのも。

ここでは毛で作った帽子が多く売られていました。この様な帽子は以前季節や身分に関係なく殆ど全住民が被っていたそうです。

ガイドのミカコさんが交渉してくれ、無料で帽子を被り記念写真を撮りました。因みにブハラなどでは有料でした。

西門に向かって左側の壁にイチャンカラの地図がタイルで描かれていました。

私の概念図は北を上にしたのですが、こちらは東が上になっています。




西門を出て城壁を振り返りました。日本の城と違って堀もなく石垣も有りません。厚くて高い土の壁です。

中へ入るには入場券が必要です。1枚買うと2日間無制限に出入りができます。

そのチケットを使い再入場。

次に④のカタル・ミノルに併設されたムハマッド・アミン・ハン・メドレセに向かいました。

今回の旅では沢山のメドレセを訪れることになります。メドレセは簡単に言うと寄宿舎付きの神学校です。現在実際に神学校として利用されているメドレセは少なく、レベルも高等学校くらいまででその上はタシケントの大学に行くそうです。

メドレセは多くの場合、入り口にはアーチ型の高い門がありその装飾が特徴となっています。ここは子孫繁栄を表すザクロとこの地の名産の綿花がモチーフとなっています。

このメドレセは、現在はOrient Star Khiva Hotelと言うホテルになっています。

門を入ると中庭が有り、4面に寄宿用の部屋があります。

多くは2層で各層は天井の低い2階建てになっています。ロケーションがいいのでホテルの予約時に考えたのですが、口コミが今一だったので止めました。

今はホテルで利用しているので天井を上げていて、各層は一階建てとしてリノベーションされていました。





次に北に少し進み広場の左手(西側)にある⑤のクフナ・アルクへ向かいました。

クフナは古い、アルクは宮殿です。

写真は正面の入口です。




イチャンカラ内の多くの建築物に世界遺産のマークが付いていますが、ここもその一つです。


1838年にアラクリ・ハンの命で建てられました。

古い宮殿とは後ほど訪れるタシュハウリ宮殿と比べて古いのでこの名前が付けられました。




入口を入った先は発掘時のままで修復されていません。





奥の広場に入ると左側に2本の木製の柱に支えられたアーチ型天井を持つ大きなホールが有ります。

この様なホールをアイヴァン、柱はコラムと呼びます。

アイヴァンはもともとここで利用されているように王の謁見の間として造られましたが、メドレセのアイヴァンなどは瞑想や講義、礼拝の場として利用されています。

3面が壁で囲まれ正面にはその奥へ通じる通路や扉が有ります。




良く見るとタイルに番号が振ってあります。これは修復時に付けられたものですが消されないまま残っているそうです。

この話をミカコさんに教えてもらった以降は、どこへ行っても番号が無いか捜してしまいました。

中央の花びらに62や63と書いているのが見えます。

2本のコラム(柱)で支えられた天井は木製。

美しい装飾がなされています。





こちらはコラムを支えている大理石の基礎です。

写真で見えている面にはアラビア語が書かれています。

広場の中央には円形の壇が有りますが、ここは客人がユルタ(移動式住居、モンゴルなどでは「ゲル」)を立てられるように設置したものだそうです。







写真の私たちの後ろにある、小さな玄関ドアを入ると中は謁見の間です。






奥に王座が有ります。但しこの写真の王座は本物ではないそうです。

部屋全体は緑系が基調の装飾です。






展示室には当時の城塞のジオラマやゾロアスター教の祭壇の模型が展示されていた。





その奥にももう一つ同じような建物が有ります。こちらはハンの夫人部屋?

こちらの壁面も美しい。




天上はこちらも木製。

奥の方には造幣局が有りました。人形などで当時の貨幣製造の作業の様子を再現しています。





硬貨の金型です。






ここを出て広場の反対側にある⑥のムハマンド・ラヒム・ハン・メドレセへ。

このメドレセは門が二重になっていて、最初の門はレンガが主で一部木造、天井はタイルです。

1876年にサイッド・ムハマンド・ラヒムハン2世の命で建設さたヒヴァでは最大のメドレセのひとつです。

この後何度か見かけることになりますが、レンガとレンガの間がリボンの様な形をした緑色のタイルでくさびを打ったようになっています。

この緑のタイルに関しミカコさんから説明を受けたのですが、メモを失くしてしまい何を表しているのか忘れてしまいました。確か家族を表しているのだったかな?

門の内側が2層になっているのは珍しいそうです。


今は展示館として使用されています。ホルムズ時代の写真が数多く展示されています。


王族も作業をしている庶民もみんな同じ前出の帽子を被っています。寒さだけでなく強い日差しからも頭を守ってくれます。





綿の糸紡ぎ機です。

その他、楽器や装飾品等も有りました。 





ミカコさんにこの広場に面したレストラン「Terassa Cafe」を午後6時で予約してもらいました。

彼女を待っている時に日本人の女性にお会いしました。一人旅だそうです。

今回の旅で何人かの日本人にお会いしましたが、殆どが1人旅の女性でした。それだけこの国は安全と言う事でしょうか。

写真はイチャンカラのマンホールの蓋です。町によってデザインが異なっているので、今後他の町でも紹介します。




その後東門の方に歩いて行きました。西門から東門に伸びる中央の道です。





屋台で売っていたタンバリンの様なローカル楽器。

上手な人が打っているのを聞きましたが、軽快なリズムで中央アジアを感じる音色でした。



途中シルクのカーペットのワークショップに寄りました。

こんなお土産ショップにも世界遺産のマークが壁に張って有りました。

買う気が無いのでグルっと見るだけで出てきました。





その先に公園が有りました。ここから先ほどのメドレセ越しにカタル・ミノルが望めました。

この公園は巻頭の地図の公園と記したところです。

拡大して見ると中央付近に2つの像があります。


レスリングをしている像です。

(こちらの写真は翌朝写したものです。)




ここから南に向かい路地を左に曲がると正面に⑧のイチャンカラ内で一番高いミナレット、イスラーム・ホジャ・ミナレットが見え、左手には⑦のパフラバン・ムハマンド廟が有ります。




⑦の廟は今回のガイドツアーに含まれていないので自腹です。

ゲートをくぐり3万スム/人でチケットを購入後、中に入るとそこは中庭です。周りにはいくつもの石棺が並んでいます。



パフラバンは当時の王と親交が有り毛皮職人や詩人、そして武道の名手として有名でした。また彼はレスラー、医師、詩人の後援者としてヒヴァだけでなく広くイランやインドでも尊敬されていました。この廟は19世紀初頭に当時のハンの命令で現在の形になりました。

上空から見ると多くのお墓がこの建物の周りに建てられています。写真は東面です。

正面にパフラバンと2人のハンの石棺が安置されたドーム、左側に2階建ての納骨棟があります。

ドームの真ん中にあるのが、ムハマンド・ラヒム・ハンの石棺です。






この写真の右側の部屋には、アラクリ・ハンの石棺が安置されています。

アラクリ・ハンはこの後訪れるタシュ・ハウリ宮殿を立てたハンです。




そして正面の左側にパフラバン・ムハマンドが眠っています。

隣りの部屋はまだ前室です。

しかし彼の石棺はこの前室にある扉の奥に安置されていて見ることはできませんでした。



非常に精緻な模様が描かれています。






中庭の西側に有る2階建ての納骨棟の一部屋です。

サイード・イスファンディヤル・ハンとその母親、そして息子の3つの墓が有ります。

但し右の母親の石棺以外は空だそうです。



門を出て左に行くと突き当りが、⑧のイスラム・ホジャのミナレットとメドレセです。

45mのミナレットに上るにはちょっと疲れすぎていたので断念ました。塔の上からイチャンカラの全貌を見たかったのですが。(左の写真は翌朝撮ったものです。)

このミナレットは濃紺、白、青、緑のタイルで美しい縞模様に装飾されています。

メドレセの門はマジョリカ・タイルが使われています。スペインのマジョリカ島で生産されたという意味ではなく、この島経由でイタリアに入って来たのでそう呼ばれるようになったそうです。

メドレセは展示館として利用されていました。

4種類に形を変えることのできる書見台です。

高い木工技術の例として展示されています。

代表的なお土産のひとつで私も購入。中型の物でUS$20 でした。スマホ立てとして利用しています。

こちらはマジョリカ・タイルです。

メドレセを出る道路わきにカーペットを広げて売っていました。

イチャンカラ内で2番目に高い(42m)ジュマモスクのミナレットが写真中央の上部に見えています。






このミナレットは青色のストライプの入った特徴的なミナレットです。

この下の建物が⑨のジュマ・モスクです。






ジュマとはイスラム教で重要な金曜礼拝の事。因みにマレー語で金曜日の事はHari Jumaat。 

Hariは日なのでJumaatは金曜。発音はジュマッです。


このモスクは西門と東門を結ぶ直線のほぼ中央にあります。

現在半分以上が修復工事中です。中は212本の木製の柱で古風な平屋根の天井を支えています。

この柱が並ぶ様子は大阪万博のウズベキスタン館のモチーフになっています。

現在のモスクは18世紀に建てられた物ですが、幾つかの柱は中世に破損した建物から再利用されています。

最も古い物は10~12世紀の物だそうです。

古い物はアラビア文字、18世紀の新しい柱はヒヴァの花と植物のパターンになっています。





千年も前の木製の柱がいまだに健在と言うのも凄いです。







現在修復中の部屋を覆いの隙間から見ると壁に穴が2つ開いていました。

写真の中央、レンガと白壁の境界線のすぐ上の2つの丸い小さな穴です。

これは壁の中を伝わり音が部屋中に聞こえる拡声器の働きをしているとのことでした。この時代の音響効果システムですね。


ジュマ・モスクを出て東門方向に向かうと⑪のタシュハリ宮殿が有ります。

クフナ・アルクが古い宮殿と言う意味でしたが、こちらは新しい宮殿と言う意味ではなく、石の庭と言う意味だそうです。

1825年から1842年のアラクリ・ハンの時代は、政治的、経済的中心は東門近辺にありました。

宮殿の門を入ると左右に2つの部屋。

右側は貢物等を渡す部屋、左側は各国からの客人にハンに謁見するための作法を教える部屋だそうです。写真はその左側の部屋です。





入って直ぐの広場には1本の木製のコラムで支えられたアイヴァンが有ります。

壁にはここも綿花がモチーフとして描かれたタイルが貼られていました。






中庭には実際のユルタが張られ、当時の模様を再現していました。





奥の方の建物にも広い中庭があり、その周りを建物が取り囲んでいるのですが、ここはハーレムです。





最初の部屋がハンの寝室。その横から第1婦人、第2婦人と並んでいます。ここは第4夫人までだったかな?







ここを出ると東門側にアラクリ・ハンのキャラバン・サライが有ります。

キャラバン・サライは隊商人の宿で荷物の保管やラクダや馬の休息所でもありました。


ここは今ではお土産屋さんが詰まったショッピング・センターになっていました。

途中の路上で山のように積まれたウズベキおじさんが。



一度⑫の東門を出て外から城壁を眺めました。


再度門を入りホテルに向かいました。





途中見つけたヨーグルトの様な物を作る器械です。


午後5時半、今日のツアーは終了です。



最後にミカコさんと記念写真を撮りお別れしました。





ホテルの部屋は8畳間ぐらいですが、ローカル色豊かな飾り付けがしてありました。







浴室には大きなバスタブが有りましたが、水を貯められないので結局シャワーだけでした。





18時にレストランを予約してあったので、ゆっくりする暇もなくクフナ・アルク前のテラッサカフェに向かいました。

結構寒いので持参していた暖かそうなウエアを全て着こんで向かいました。

予約時に既に室内は満席だったのでテラス席にしていました。風の余り当たらないところをお願いしていたので、室内へのドアのすぐ横のテーブルでした。



テラス席の端の方は風が通り抜け寒そうでした。

この寒さでビールを飲む気にはならず、ウオッカのショットにしました。妻はフルーツ・ティーでした。




料理はメニューにあったヒヴァ料理のセット。

8種類の料理が出てきました。どれも、結構日本人の舌には合うかなと言う感じでした。






写真の左上から下、上・・と説明しますと、マンティ(饅頭)、卵の餃子、サラダ、グリーンヌードル、焼肉とオニオン(オニオンが無かった)、肉とカボチャの餃子、チキンケバブ、羊のケバブの8種でした。

これで345,000スム約5千円弱でした。



目の前にはクフナ・アルクそしてその向こうにはカルタ・ミノルがライトアップされ始め中央アジア感たっぷりの世界にいることを実感しました。

ホテルへ向かうころにはウオッカの効能も薄れ寒さに震えながら、それでもライトアップされた夜景を楽しみながら歩きました。





ムハマンド・ラヒム・ハン・メドレセの上には半月が。





もう一枚。少しアップで。



写真は明かりの灯ったゲストハウスの玄関です。

部屋に戻ったら、足が痒い。ここは砂漠の中の町、と言う事は湿度が低いと言う事をすっかり失念していました。保湿クリームを持って来るべきだったと思いましたが、時すでに遅し。翌日ブハラに行ったら薬局を捜してみよう。

翌朝は迎えの車が10時に来るので、朝食前にイチャンカラ内を散歩することに。

7時過ぎに出発。

朝日の当たるムハマッド・アミン・ハン・メドレセとカルタ・ミノルです。



公園を歩き、東門方向に向かいました。

正面がパフラバン・ムハマド廟のドームです。

右の高い塔がイスラーム・ホジャ・メドレセのミナレット。

左の塔がジュマ・モスクのミナレットです。


この公園には先に紹介したレスリングの像が有りますが、もう一つ楽器を演奏する人たちの像も有ります。





出来たら昨日諦めたイスラーム・ホジャ・ミナレットに上ってみようと向かいました。

途中、パフラバン・ムハマンド廟の門が開いていたので覗いてみました。

写真は逆光のミナレットとパフラバン・ムハマンド廟です。


チケット売り場が閉じていたので入り口付近から中庭を写していたら信者の方が。







ミナレットに行ってみましたが、まだ開いていませんでした。残念!





朝早くから通路を清掃している幾人かの方に出会いました。

そう言えば、イチャンカラ内はいつも清潔に保たれていて、路上にごみなどを見ることはありませんでした。

さすが博物館都市です。





朝7時半ごろでは、東門のゲートにもまだ係員はいないのでフリーに通行できました。

チケットは持って行ったのですが不要でした。




東門を出て朝日を浴びる城壁を写してみました。

東門は写真左側の並木道が付きあたる場所です。正面の門の様なところはキャラバン・サライです。

私たちの影が伸びて東門の入口まで届きました。

長~い足でしょう。







東門に向かって左側に地元の人が礼拝するサイード・ニアズ・シェリカル・モスクとミナレットがあります。

このモスクは別名白いモスクと呼ばれるそうです。

その横には浴場が有ったのですが見落としてしまいました。


門をくぐり進路を右手に。つまり北方向に向かいました。キャラバン・サライはまだ開店していませんでした。北の方は住宅地。ゲストハウスなどが点在していました。

この住宅地エリアには入らず、西へムハマンド・ラヒム・ハン・メドレセの北側の道を歩きました。

この時間帯は誰も歩いていません。音のない静かな時間が流れていました。

路地から左手を眺めると、遠くにイスラム・ホジャ・メドレセのミナレットと、手前にジュマ・モスクのミナレットの頭頂部が見えています。




ここから昨夜夕食を食べたテラッサカフェの在る広場を通り過ぎ、西側の内壁まで歩きました。





そこからこの壁に沿って歩きクフナ・アルク前まで。

土壁と対照的な花壇。目が癒されました。







壁の上に、ここで良く見る小鳥が。餌を捜しているのかな?





クフナ・アルクまえの広場まで戻ってきました。

この時クフナ・アルク宮殿側を写したのが巻頭の写真です。




広場には登校中の子供たちがチラホラ。






ここからカルタ・ミノルに向かいました。

朝日に映えるカルタ・ミノル。





左に少し進み、小さな路地を右に折れると左側に小さな公園が。ここに家族の団欒を象徴するような像群が有りました。





踊っている子供が、なんとなく昨日私が帽子を被って撮った写真に似ていて、妻と二人で笑ってしまいました。

ここからホテルに戻りました。

約1時間の散歩で殆どイチャンカラを一周したことになります。





8時過ぎだと言うのに朝食は私たちが一番乗り。








写真の様な盛りだくさんの朝食セットが提供されました。

主食のグンマやサムサの様な物、サラダ、フルーツ、ナッツ類、ゆで卵、アンズの甘露煮等、満足のいく朝食でした。



何故かナッツに交じってキノコの森?も。







10時に昨日のドライバーが迎えに来てくれました。

荷物は彼が車まで運んでくれました。ところが車がセダンではなく大きなマイクロバスです。これに私達夫婦だけ?

ドライバーもチェンジでした。

南門の外で車を停めてもらい、南門を撮影。

南門から西を望んだ写真です。






この南の方にももう一つの外門が見えていました。これが外壁の南門です。

上の写真の城壁は周囲2㎞、この外壁は周囲6㎞あったそうです。

これで今回行けなかったのは北門だけになりました。



車は一度ウルゲンチの町の方に向かい、そこからA380でブハラへ向かいました。

次回はヒヴァからブハラ、そしてブハラ観光の様子をお届けします。



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