| 朝日を浴びるクフナ・アルク宮殿の門とカルタ・ミノル |
ヒヴァにあるイチャンカラは、屋外博物館都市として1990年にウズベキスタン最初の世界遺産に登録されました。イチャンは内側、カラは城を意味しています。
高くて厚い2kmの長さの内壁に囲まれた砂漠の中のオアシス都市で、宮殿2つを中心に20のモスク、6本のミナレット、そして20の寄宿舎付き神学校メドレセが中心から東西に点在し、南北には住宅街が広がっています。因みに外壁は6㎞もあります。
左はイチャンカラの概念図で、わたし達が訪れた場所を順に番号で示しました。他にも名跡はまだありますが。漢字の母を思い浮かべて囲いの中の横線と点々の辺りに重要な建物が集まっています。
①のホテルを出発して先ず③の西門に向かいました。最初に見えてくるのが②のカルタ・ミノルの塔です。
写真の正面は旧ムハマンド・アミン・ハン・メドレセ、今はオリエントスター・ホテルです。
現在の高さは26mですが、建設当初は中央アジアで最大で最も高い109mを予定していたのですが、命令した王がなくなった為途中で中止されてこの高さになったらしい。それでも大きい!
一説ではブハラのハンが引き継ごうと建築家を送ったのですが、ここヒヴァのハンが腹を立ててこの建築家をこのミナレットの上から投げ殺したという説も有ります。
青いガラス張りタイルを使ったミナレットは中央アジアではここだけとのことです。
ここから③の西門に向かうと両側にお土産屋さんの屋台が並んでいます。これはウズベキおじさんだそうです。ウズベキスタン全土で種々のウズベキおじさんが売られていました。
ここでは毛で作った帽子が多く売られていました。この様な帽子は以前季節や身分に関係なく殆ど全住民が被っていたそうです。
ガイドのミカコさんが交渉してくれ、無料で帽子を被り記念写真を撮りました。因みにブハラなどでは有料でした。
西門に向かって左側の壁にイチャンカラの地図がタイルで描かれていました。私の概念図は北を上にしたのですが、こちらは東が上になっています。
西門を出て城壁を振り返りました。日本の城と違って堀もなく石垣も有りません。厚くて高い土の壁です。
中へ入るには入場券が必要です。1枚買うと2日間無制限に出入りができます。
そのチケットを使い再入場。
次に④のカタル・ミノルに併設されたムハマッド・アミン・ハン・メドレセに向かいました。
今回の旅では沢山のメドレセを訪れることになります。メドレセは簡単に言うと寄宿舎付きの神学校です。現在実際に神学校として利用されているメドレセは少なく、レベルも高等学校くらいまででその上はタシケントの大学に行くそうです。
メドレセは多くの場合、入り口にはアーチ型の高い門がありその装飾が特徴となっています。ここは子孫繁栄を表すザクロとこの地の名産の綿花がモチーフとなっています。
このメドレセは、現在はOrient Star Khiva Hotelと言うホテルになっています。門を入ると中庭が有り、4面に寄宿用の部屋があります。
多くは2層で各層は天井の低い2階建てになっています。ロケーションがいいのでホテルの予約時に考えたのですが、口コミが今一だったので止めました。
今はホテルで利用しているので天井を上げていて、各層は一階建てとしてリノベーションされていました。クフナは古い、アルクは宮殿です。
写真は正面の入口です。
1838年にアラクリ・ハンの命で建てられました。
古い宮殿とは後ほど訪れるタシュハウリ宮殿と比べて古いのでこの名前が付けられました。
良く見るとタイルに番号が振ってあります。これは修復時に付けられたものですが消されないまま残っているそうです。
この話をミカコさんに教えてもらった以降は、どこへ行っても番号が無いか捜してしまいました。
中央の花びらに62や63と書いているのが見えます。
2本のコラム(柱)で支えられた天井は木製。美しい装飾がなされています。
写真で見えている面にはアラビア語が書かれています。
広場の中央には円形の壇が有りますが、ここは客人がユルタ(移動式住居、モンゴルなどでは「ゲル」)を立てられるように設置したものだそうです。部屋全体は緑系が基調の装飾です。
こちらの壁面も美しい。
奥の方には造幣局が有りました。人形などで当時の貨幣製造の作業の様子を再現しています。
このメドレセは門が二重になっていて、最初の門はレンガが主で一部木造、天井はタイルです。
1876年にサイッド・ムハマンド・ラヒムハン2世の命で建設さたヒヴァでは最大のメドレセのひとつです。
この後何度か見かけることになりますが、レンガとレンガの間がリボンの様な形をした緑色のタイルでくさびを打ったようになっています。この緑のタイルに関しミカコさんから説明を受けたのですが、メモを失くしてしまい何を表しているのか忘れてしまいました。確か家族を表しているのだったかな?門の内側が2層になっているのは珍しいそうです。
今は展示館として使用されています。ホルムズ時代の写真が数多く展示されています。
その他、楽器や装飾品等も有りました。
彼女を待っている時に日本人の女性にお会いしました。一人旅だそうです。
今回の旅で何人かの日本人にお会いしましたが、殆どが1人旅の女性でした。それだけこの国は安全と言う事でしょうか。
写真はイチャンカラのマンホールの蓋です。町によってデザインが異なっているので、今後他の町でも紹介します。
上手な人が打っているのを聞きましたが、軽快なリズムで中央アジアを感じる音色でした。
こんなお土産ショップにも世界遺産のマークが壁に張って有りました。
買う気が無いのでグルっと見るだけで出てきました。
この公園は巻頭の地図の公園と記したところです。
拡大して見ると中央付近に2つの像があります。
(こちらの写真は翌朝写したものです。)
ゲートをくぐり3万スム/人でチケットを購入後、中に入るとそこは中庭です。周りにはいくつもの石棺が並んでいます。
上空から見ると多くのお墓がこの建物の周りに建てられています。写真は東面です。
正面にパフラバンと2人のハンの石棺が安置されたドーム、左側に2階建ての納骨棟があります。ドームの真ん中にあるのが、ムハマンド・ラヒム・ハンの石棺です。
アラクリ・ハンはこの後訪れるタシュ・ハウリ宮殿を立てたハンです。
隣りの部屋はまだ前室です。
しかし彼の石棺はこの前室にある扉の奥に安置されていて見ることはできませんでした。
サイード・イスファンディヤル・ハンとその母親、そして息子の3つの墓が有ります。
但し右の母親の石棺以外は空だそうです。
45mのミナレットに上るにはちょっと疲れすぎていたので断念ました。塔の上からイチャンカラの全貌を見たかったのですが。(左の写真は翌朝撮ったものです。)
このミナレットは濃紺、白、青、緑のタイルで美しい縞模様に装飾されています。
メドレセの門はマジョリカ・タイルが使われています。スペインのマジョリカ島で生産されたという意味ではなく、この島経由でイタリアに入って来たのでそう呼ばれるようになったそうです。
メドレセは展示館として利用されていました。4種類に形を変えることのできる書見台です。
高い木工技術の例として展示されています。
代表的なお土産のひとつで私も購入。中型の物でUS$20 でした。スマホ立てとして利用しています。
こちらはマジョリカ・タイルです。メドレセを出る道路わきにカーペットを広げて売っていました。イチャンカラ内で2番目に高い(42m)ジュマモスクのミナレットが写真中央の上部に見えています。
この下の建物が⑨のジュマ・モスクです。
Hariは日なのでJumaatは金曜。発音はジュマッです。
このモスクは西門と東門を結ぶ直線のほぼ中央にあります。
現在半分以上が修復工事中です。中は212本の木製の柱で古風な平屋根の天井を支えています。
この柱が並ぶ様子は大阪万博のウズベキスタン館のモチーフになっています。
現在のモスクは18世紀に建てられた物ですが、幾つかの柱は中世に破損した建物から再利用されています。最も古い物は10~12世紀の物だそうです。
古い物はアラビア文字、18世紀の新しい柱はヒヴァの花と植物のパターンになっています。
写真の中央、レンガと白壁の境界線のすぐ上の2つの丸い小さな穴です。
これは壁の中を伝わり音が部屋中に聞こえる拡声器の働きをしているとのことでした。この時代の音響効果システムですね。
クフナ・アルクが古い宮殿と言う意味でしたが、こちらは新しい宮殿と言う意味ではなく、石の庭と言う意味だそうです。
1825年から1842年のアラクリ・ハンの時代は、政治的、経済的中心は東門近辺にありました。
宮殿の門を入ると左右に2つの部屋。右側は貢物等を渡す部屋、左側は各国からの客人にハンに謁見するための作法を教える部屋だそうです。写真はその左側の部屋です。
壁にはここも綿花がモチーフとして描かれたタイルが貼られていました。
キャラバン・サライは隊商人の宿で荷物の保管やラクダや馬の休息所でもありました。
ここは今ではお土産屋さんが詰まったショッピング・センターになっていました。
途中の路上で山のように積まれたウズベキおじさんが。一度⑫の東門を出て外から城壁を眺めました。
再度門を入りホテルに向かいました。
午後5時半、今日のツアーは終了です。
結構寒いので持参していた暖かそうなウエアを全て着こんで向かいました。
予約時に既に室内は満席だったのでテラス席にしていました。風の余り当たらないところをお願いしていたので、室内へのドアのすぐ横のテーブルでした。
この寒さでビールを飲む気にはならず、ウオッカのショットにしました。妻はフルーツ・ティーでした。
料理はメニューにあったヒヴァ料理のセット。
8種類の料理が出てきました。どれも、結構日本人の舌には合うかなと言う感じでした。
これで345,000スム約5千円弱でした。
部屋に戻ったら、足が痒い。ここは砂漠の中の町、と言う事は湿度が低いと言う事をすっかり失念していました。保湿クリームを持って来るべきだったと思いましたが、時すでに遅し。翌日ブハラに行ったら薬局を捜してみよう。
翌朝は迎えの車が10時に来るので、朝食前にイチャンカラ内を散歩することに。7時過ぎに出発。
朝日の当たるムハマッド・アミン・ハン・メドレセとカルタ・ミノルです。
正面がパフラバン・ムハマド廟のドームです。
右の高い塔がイスラーム・ホジャ・メドレセのミナレット。
左の塔がジュマ・モスクのミナレットです。
出来たら昨日諦めたイスラーム・ホジャ・ミナレットに上ってみようと向かいました。
途中、パフラバン・ムハマンド廟の門が開いていたので覗いてみました。
写真は逆光のミナレットとパフラバン・ムハマンド廟です。
そう言えば、イチャンカラ内はいつも清潔に保たれていて、路上にごみなどを見ることはありませんでした。
さすが博物館都市です。
東門は写真左側の並木道が付きあたる場所です。正面の門の様なところはキャラバン・サライです。
私たちの影が伸びて東門の入口まで届きました。長~い足でしょう。
このモスクは別名白いモスクと呼ばれるそうです。
その横には浴場が有ったのですが見落としてしまいました。
この住宅地エリアには入らず、西へムハマンド・ラヒム・ハン・メドレセの北側の道を歩きました。
この時間帯は誰も歩いていません。音のない静かな時間が流れていました。
路地から左手を眺めると、遠くにイスラム・ホジャ・メドレセのミナレットと、手前にジュマ・モスクのミナレットの頭頂部が見えています。土壁と対照的な花壇。目が癒されました。
壁の上に、ここで良く見る小鳥が。餌を捜しているのかな?
この時クフナ・アルク宮殿側を写したのが巻頭の写真です。
朝日に映えるカルタ・ミノル。
ここからホテルに戻りました。
約1時間の散歩で殆どイチャンカラを一周したことになります。
荷物は彼が車まで運んでくれました。ところが車がセダンではなく大きなマイクロバスです。これに私達夫婦だけ?
ドライバーもチェンジでした。
南門の外で車を停めてもらい、南門を撮影。
南門から西を望んだ写真です。上の写真の城壁は周囲2㎞、この外壁は周囲6㎞あったそうです。
これで今回行けなかったのは北門だけになりました。
車は一度ウルゲンチの町の方に向かい、そこからA380でブハラへ向かいました。
次回はヒヴァからブハラ、そしてブハラ観光の様子をお届けします。

























































































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