2025年12月2日火曜日

ウズベキスタンの旅 その8 サマルカンド観光 前編2

 

ティムールが眠るグル・アミール

シャーヒズィンダの霊廟群を後にして、近くにあるウルグベク天文台に向かいました。

天文台へ上がる階段の手前にあるウルグ・ベクの座像の前で記念写真。

今回の旅行中、度々出て来るこの名前。アムール・ティムールの孫で、1394年に生まれたティムール朝の4代目君主です。

天文学者・数学者・文人としてもすぐれていました。

学者や文人の保護者で、君主での業績より学者としての方が高く評価されているそうです。

特に天文学に秀でていました。

階段を上った丘の上に彼が建てた天文台の跡があります。

1420年に完成した天文台を使って作られた天文表は、精度が高く17世紀にケプラーが出てくるまで最も重要視されていたそうです。

写真は天文台の円形の台座と地下にある遺跡を守るために建てられた覆いです。

ウルグ・ベクの死後1449年に大部分が破壊され、1908年まで土に埋もれていた物をロシアの考古学者が発掘しました。

左の写真は巨大六分儀の下半分の遺跡です。ほとんどが地下になっています。

この六分儀を使って星を観測し、太陽年を365日5時間49分15秒秒と決定しました。実際値より+25秒の誤差でした。因みにコペルニクスは+30秒の誤差でした。

赤道傾斜角(地球の傾き)は23.25度とし、これもコペルニクスより正確で、現在に至るまで最も正確な値だそうです。

望遠鏡も使わずこの正確な観測には驚かされます。

この遺跡の反対側に博物館が有ってウルグ・ベクの功績が展示されています。

写真は天文台の原型を想像したものです。






実際にはこのようにして観測していたようです。








この絵は著名な天文学者が一堂に集まったとしたらこうだっただろうと思い描いた図です。

ウルグ・ベクと一緒にコペルニクスやケプラーなども描かれています。



博物館を出たのが12時半近かったのでランチに向かいました。

ダレルさんの良く知っているお店に行きました。

彼が車を停める場所を捜している間、店の前で待っていたのですが、タンディール(焼き釜)で焼いているサムサの匂いにお腹が鳴ってしまいました。

釜はこの人の奥に一部見えています。



レストランはこの後ろの半地下にありました。

早速ダレルさんに表で売っていたサムサを頼んでもらいました。

レストランにに持って来てくれるんですね。

焼きたてで香ばしくとても美味でした。




こちらはビーズの入ったサラダです。

その他はトマトやひよこ豆。



その他ビーフの炒め物を食べました。

一寸洋風?

飲み物を含んで158kスム、約2,000円でした。



ランチ後、レストランから裏道を抜けて狭い路地で車を降りました。その先はタシケント通りと呼ばれ、観光客で賑わう通りです。

右折して直ぐ右側がイカット・ブティック・カフェ&レストランで、今回の現地ツアーでお世話になったSRP社がオーナーです。社長の盛井さんにお会いしてこの日の朝の病院の手配のお礼をしたかったのですが、改装中で閉店していました。

この先の左手に大きなモスクが見えてきました。

写真下部の人間の大きさと比べると、いかに巨大な建造物なのか分かります。

これははモスクへ入る門です。

ここが1404年にティムールの命により建てられたティムール帝国の大聖堂モスク、ビビハニム・モスクです。

因みにビビハニムはティムールの最愛の王妃の名前です。


今度は正面に向かって左手前からワイドで撮ってみました。奥に右半分が見えるイーワン(アーチ型のゲート)が礼拝堂のある建物です。

この世界最大級のモスクは熟練職人200人、労働者500人以上と95頭の象が使われ5年で完成したそうです。

門をくぐると広場の先に2つのドームと4隅にあるミナレット(?)、そしてモスクがあります。

展示されていたパネルですが、左上の写真が当時の全体図です。

現在は、2つ上の写真のように門の上部は壊されて無くなっています。左右に窓が3つあった物が、現在は2つしか残っていません。と言う事は、ほゞ上半分が無くなっています。

門を入ると広場の向こうに大きな建物があります。
これが礼拝堂です。

このモスクには謂れが有ります。ティムールが遠征中、留守を守る王妃の悲しい話です。
ティムールが凱旋する前に完成予定でしたが、工事が遅れ急がす王妃に建築家が言い寄りました。「もしキスをさせてくれれば何としても完成させる」と。断ったのですが最後には完成を最優先させてキスをさせ、間に合わせました。ところが頬にキスの跡が残り、それを見たティムールは建築家を死刑、王妃をミナレットから突き落としたそうです。(一生ベールを掛けさせたという説も有ります。)

まだ修復されずに残った所もあります。

このイーワンで珍しいのは角に八角形の柱を持つことです。

尚この柱も上の部分が無くなり、元の形より短くなっています。

こうして急いで完成させた為、後に信者たちが礼拝中天井のレンガが崩れ落ちて多数の信者が犠牲になりました。

それ以降訪れる人が徐々に少なくなり廃墟となってしまいました。

なんだか現代の建設工事にもあるような話ですね。

写真はその崩壊したモスクの中を覗いている観光客です。当然中は危険なので入れません。



こちらが格子の隙間から内部を写したものです。

崩れ落ちた天井のかけらが散らばっていました。










ブハラのカラーン・モスクと同様にここにもコーランの為の巨大な大理石の書見台が有りました。

これは後のウルグ・ベクの時代に作られました。

この周りを3度回ると願い事が叶うと言われているそうです。

こちらは青いドームを持つ建物で今は展示館になっていました。

先に紹介した全体像のパネルもここにありました。










ドームの天井です。












こちらのドームはまだ修復が終わっていません。

モスク内を一周して次の目的地のショブバザールへ向かいました。と言っても隣にあるのですが。










ビビハニム・モスクの反対側にはビビハニムのお墓、ビビハニム廟があります。写真の奥に写っている青いドームの建物です。

ビビハニムとは名前でなく第一夫人の呼び名です。彼女の本名はサライ・ムヌク・ハーヌムでチンギス家の末裔の娘だそうです。

ここにはビビハニムの他に彼女の母親と姉妹が眠っているそうです。
モスクに向かって右側にあるのがサマルカンド最大のバザール、ショブバザールです。

私達は車で移動しましたが、レギスタン広場から東北に伸びるイスラム・カリモフ通りを通って、ビビハニム・モスク、ショブ・バザールそしてシャーヒズィンダまでは2㎞位の距離です。


この日は日曜日。月曜日はこのバザールはお休みなので多くの買い物客が出てました。それでも半数近くは観光客?

この奥の白い屋根の下にバザールが広がっています。

更にその奥にも商店が連なっていました。


先ずトイレへ。3kスム、約40円弱。女性トイレでは写真の様なトイレット・ペーパーをくれたそうですが、男性トイレでは何ももらえませんでした。

私達はそんなことも有ろうかと常にトイレット・ペーパーを持って歩いています。



バザールの中に入りました。

色んな生鮮食品、香辛料、ドライフルーツやナッツ、穀類、ケーキやお菓子、ナン、日用雑貨等生活必要品が所狭しと売られていました。

食堂も有りました。


こちらはナン。

比べる物が無いので大きさが伝わりずらいのですが、かなり大きいです。






私達はお土産用のナッツ類を捜していたので、ダレルさんが懇意にしているお店に行きました。

ここで試食して美味しかったのが写真の奥の方にある白い大きな実、ピーカンナッツです。味はクルミの様ですが甘みがあり、即気に入りました。
この他もう一種マカデミアンナッツの様なナッツも購入しました。
売り子のお兄さん。

少し裏の方も見学して次の目的地のグル・アミールへ向かいました。






車に戻る途中に振り返り、ビビハニム・モスクに別れを告げました。












グル・アミールはティムールが眠るお墓です。
元々この廟は戦死した彼の孫の為に建てられました。
1年後ティムールが中国遠征の途中で病死。彼は故郷のシャフリサーブスに埋めて欲しかったのですが、積雪の為道路が閉鎖され急遽ここに埋葬されることになったそうです。

この場所はレギスタン広場を挟んで丁度反対側の西南に位置します。

グル・アミールは「支配者の墓」という意味です。

因みにアミールはイスラム教の指導者、ティムールは鉄人と言う意味です。

上の写真は駐車場辺りから写したものです。

もっと寄ってみましょう。

イーワン(アーチ型のゲート)の天井の立体装飾の精緻さには驚かされました。ブハラやシャーヒズィンダの霊廟にも美しい物は有りましたがこの細工は初めて見ました。

これはムカルナス様式と呼ばれるそうです。

ゲートの奥に霊廟が見えています。

イーワンを抜けると広場になっていて、その向こうに写真の様な霊廟が有ります。

この壮麗なイスラム建築はその後のイスラム世界の建築物に大きな影響を与えたそうです。

後に造られたタージ・マハールなどもその影響が有ったと言われています。

この廟には3㎏の黄金が使われているそうです。








石棺にはネフライトが使われています。ネフライトは緑閃石の事でヒスイが硬石であるのに対しこちらは軟石と言われています。日本ではどちらもヒスイです。

中央の黒く見えるのがティムールの石棺です。

石棺の中には何も入っていません。

実際のお墓は地下3mのところにあります。



ネフライトは光を当てると色が変わり美しく輝きます。


こちらが霊廟の裏側にある地下のお墓への入り口です。

スターリンはティムールに憧れていて、考古学者にティムールの遺骨をロシアに運ぶよう指示しました。

考古学者たちが持ち帰ろうとしたとき、ここにいた3人の老人がたたりがあることを告げました。


その結果ロシアはナチスの侵攻を受けてしまいました。さらなる不運を避けるため1年後遺体を元の場所に返還しました。その後ロシアはナチスを打ち破ることに成功したそうです。考古学者たちはその3人の老人を捜しましたが見つかりませんでした。

この後本来ならレギスタン広場の見学が予定されていたのですが、前夜既に行っているし、わたしの体調も心配なのでこの日のツアーは終了とし、ホテルに送ってもらいました。

2時間ほどホテルでまったりした後、妻はやはりもっとレギスタン広場を見たいという事なので、ATMでスムを少し入手したい私も一緒に出掛けました。

今日もチケット売り場には多くの観光客が並んでいました。

ATMは広場の正面の道路の反対側にあるショップの前にありました。(広場脇にも有ったのですがうまく作動しませんでした。)


ウルグ・ベク・メドレセの裏で別れた妻と合流。

夕陽を浴びるレギスタン広場です。




広場の東側にあります。


広場に行く前に見つけておいたレギスタン広場の裏側にあるエミルハン(EMIRHAN)と言うレストランにしました。





予約はいらないとのことでしたが、テラス席を予約しておけば良かったかも。

それでも時間が早かった為か何とか席を確保できました。

青いドームはレギスタン広場の三つのメドレセの内中央にあるティラカリ・メドレセのドームです。


ここはレストランの屋上です。この下に屋内の部屋が2層になってある大きなレストランです。屋上は眺めはいいけれど寒い。

結局耐えきれずスタッフにブランケットを頼みました。見ていると結局多くのお客がブランケットを使用することに。

奥の男性は肩から羽織っています。


この寒さの中、オーダーした物が30分以上出て来ない。マネージャーの様な女性に催促してやっと出てきました。ブハラのプロフと同様お腹がすきすぎて料理の写真は撮り忘れ。今夜はチュチワラ、ラグマン、カザン・ケバブとお茶でした。左の小さいお椀がチュチワラ、真ん中がラグマン、右側がカザン・ケバブ(ラム肉とポテト)です。

値段は344kスム、約4400円でした。さすが観光地と言う値段でした。

ホテルまでは歩いて5分。寒いので急いで帰りました。翌日はティムールの生誕地で世界遺産のシャフリサーブスに行きます。そちらは次の回にします。

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